港区・品川区の不動産・マンションはタマホーム不動産>ブログ記事一覧>現地取材≫消えた梵鐘を探せ! 品川寺/青物横丁とスイスを結ぶ物語(下)

現地取材≫消えた梵鐘を探せ! 品川寺/青物横丁とスイスを結ぶ物語(下)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
テーマ:ライター記事

 品川区で一番古いお寺といわれる品川寺(ほんせんじ)。
 前回は、このお寺の梵鐘が戊辰戦争の時代に忽然と姿を消したというミステリーについてお伝えしました。
 さて、明治初期の大混乱期に、品川寺の梵鐘は、いったいどこへ行ってしまったのでしょうか?

 日本国内が内戦状態にあった、幕末から明治初期までの時代、世の中には廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、大量の美術品群が、海外へ流出しました。

 恐らく品川寺の大梵鐘も、こうした世相の中でその価値を顧みられることなく、人手に渡ってしまったものと思われますが、一説には、慶応3年(1867年)のパリ万博ないし、明治6年(1873年)のウィーン万博の出品リストにその名前があったといわれ、また一説には、明治政府が欧州での大砲鋳造のため徴発した仏閣の鐘に紛れてヨーロッパに送られたとも言われています。(※1)
(この手の美術品消失ミステリーは、ヨーロッパ大陸では十八番のようで、有名どころでは、第二次世界大戦中にヒトラーが追い求めた「ロンギヌスの槍」がウィーン王宮博物館にあります。(※2))

 さて、半世紀以上に渡り行方不明になっていた大梵鐘が再発見される契機をつくったのは、大正5年(1916年)に品川寺に入った仲田順海住職でした。
 順海住職は、寺域近隣で口伝えに「大梵鐘が海外へ持ち出された」という話が残るのを耳にし、本格的に梵鐘捜索へ乗り出します。当時、海外渡航人の名前は新聞に掲載されたことから、順海住職は、近傍にあってはその住居を直接訪問し、遠方にあっては手紙を出して鐘の消息を知らせてくれるようお願いして回ったといいます。(※3)

 そしてついに、大正8年(1919年)、スイス・ジュネーブ市に滞在中の留学生から、同市にあるアリアナ美術館に所在する大梵鐘の報がもたらされます。

 以降、大梵鐘の返還に向けた陳情活動は、スイス在住の在外高官や、時の外務大臣・幣原喜重郎(後に戦後2番目の内閣総理大臣)も巻き込んだ大きなうねりとなり、発見から10年を経た昭和4年(1929年)に、ジュネーブ市は、この数奇な運命を辿った梵鐘の経緯について市民の理解を得、全会一致で大梵鐘の贈還を決定しました。

 ちなみに、この梵鐘が品川寺に帰ってきた昭和5年(1930年)5月には、多くの人出が梵鐘の帰還を迎え、順海住職と知己であった詩人・高浜虚子がその様をこう詠んでいます。

“座について 供養の鐘を 見上げけり”

≪品川寺境内にある梵鐘帰還について詠まれた、高浜虚子の句碑≫


 いまでも、京急本線・青物横丁駅を降りると目の前に、この梵鐘帰還を記念して名付けられた「ジュネーブ平和通り」の名が残る道路標識にお目にかかることができます。

≪青物横町にある「ジュネーブ平和通り」の標識≫


 来年2018年は、スイスで品川寺の梵鐘が発見されてから、ちょうど百年目の節目に当たります。
 皆さんも品川寺で、束の間、歴史に思いを馳せられるのは如何でしょうか。


※1 swissinfo.ch 2003年9月29日付「数奇な運命を辿った大梵鐘」
※2 ホーフブルグ王宮宝物館 収蔵品リストより「Die Heilige Lanze」(写真あり)
※3 ITUジャーナルVol.46 №5(2016.5)『鐘が結ぶジュネーブ・品川の交流』津川清一 


取材・文/TN(HN)
≪ 前へ|2018年2~4月人気記事ランキング(タマホーム不動産)   記事一覧   Y澤不動産には気を付けろ!事故物件を超えるトラウマ物件とは…?!|次へ ≫

トップへ戻る